
テレビやニュースで「ウイルス」や「ワクチン」という言葉を耳にすることは、いまや日常となりました。インフルエンザ、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)、HIV-1感染症など、ウイルスは私たちの生活や社会に大きな影響を与えています。「熊薬ものがたり」web版が作成された平成26(2014)年頃と比べると、ウイルス感染症は私たちにとってより身近な存在となりました。COVID-19の流行を通して、私たちは重要な教訓を得ました。それは、新興感染症への対策は「発生してから対応する」のではなく、平時からの研究と準備こそが社会を守る基盤であるということです。未知の感染症が発生した場合には、その原因となるウイルスに特異的なワクチンや治療薬を一刻も早く国民へ届けることが求められます。同時に、将来出現するさまざまなウイルス感染症に備え、あらゆるウイルスに共通する標的を狙った治療薬の準備も平時から進めておくことが重要です。そのためには、ウイルスの増殖機構や宿主細胞との相互作用を深く理解する基礎研究が不可欠となります。
我々の「熊薬」におけるウイルス研究は、30年以上にわたり継続されてきたHIV-1研究を出発点としています。HIV-1は、自ら増殖するために宿主細胞の仕組みを巧みに利用するウイルスであり、その過程では細胞内の代謝システムまでも巧妙に乗っ取ります。私たちは、HIV-1が宿主細胞内の解糖系酵素と複雑な相互作用を繰り広げながら増殖効率や感染性を維持していることを明らかにしてきました。これは、ウイルスが単に細胞へ侵入するだけでなく、「細胞のエネルギー産生機構やアミノ酸および代謝物といった細胞を構成する分子そのものを利用して生き延びている」ことを示しています(図1)。この「ウイルスと細胞代謝の関係」という視点は、HIV-1に限らず多くのウイルスに共通する可能性があります。私たちはHIV-1研究で培った知見を基盤として、インフルエンザウイルス、SARS-CoV-2、ワクシニアウイルスなどへ研究を展開し、「熊薬」が有する感染症研究基盤施設を最大限に活用しながら、異なるウイルスを横断的に理解する研究を進めています。未知のウイルスが出現したときにも迅速に対応できる―その基盤となるのが、こうした普遍的なウイルス増殖メカニズムの解明です。
現在、本研究分野では次のような研究を柱として展開しています。
これらの研究は、「感染予防」「増殖抑制」「体内からの排除」という感染症制圧の流れを見据えて進められています。
HIV-1やB型肝炎ウイルスは、現在の医療においても完全な排除が極めて困難なウイルスです。薬剤治療により長期的な病状管理は可能となりましたが、体内に潜伏するウイルスを完全に取り除くことは依然として医学の大きな課題です。私たちの研究室では、薬学、臨床医学、感染症学および基礎科学の知見を融合しながら、ウイルスを体内から排除するという悲願に向けた研究を進めています。ウイルス複製機構の理解と治療薬開発を一体的に推進することで、将来的な根治療法の実現を目指しています(図2)。
「熊薬」の大きな特色の一つが、グローバル天然物科学研究センターを中心とした天然物創薬研究です。世界各地の有用植物や薬用植物、さらには伝承医療に関する知識を科学的に解析し、新たな医薬品候補の探索を行っています。世界では、西洋医学と並行して伝統・伝承医療を医療体系に取り入れ、人々の健康維持に貢献している例も多く見られます。こうした経験知を科学的根拠に基づいて再評価することは、新しい創薬の可能性を切り拓く重要な取り組みです。私たちは天然物由来の化合物を活用し、HIV-1の潜伏感染細胞を排除する新たな治療シーズの探索にも取り組んでいます。自然界に存在する分子が未来の感染症治療を変える可能性を秘めている―その発見の過程そのものに、天然物創薬の大きな魅力があります。
感染症との戦いに終わりはありません。しかし、基礎研究、ワクチン開発、創薬科学を融合することで、人類は確実に前進しています。「熊薬」では、感染症を「恐れる対象」ではなく、「理解し、制御し、克服する対象」として捉えています。未知の感染症に備え、未来の医療を創り出す。その最前線で学び、挑戦できる場所が「熊薬」です。ここから、次世代の感染症対策を担う研究者や医療人が生まれることを期待しています。