薬用植物園

これまでの歩み

これまでの歩みを各期でまとめてご紹介。

  • 第一期
  • 第二期
  • 第三期
  • 第四期
  • 第五期
  • 第六期

第一期:熊本大学薬学部薬草園

 開設は、1926年(大正15年)に薬草園敷地として5567坪を購入したことから始まる。この敷地は現在の薬学部グラウンド、栽培圃場、職員宿舎を含む一帯で、この中の2000坪を構内の南西隅の一角と交換して、購入した敷地内にグラウンドを作り、その代わりに構内に同面積の標本園を作った。またグラウンド西側を栽培圃場とし、これらを併せて、熊薬薬草園として設立されたのは1927年であった。

 現存するモクゲンジ、テンダイウヤク、サンシュユ、サンザシ、ニンジンボク等は、この時代に当時の第五高等学校の植物園から移植したものである。これは旧細川藩の薬園であった蕃滋園(熊本市薬園町にあった)が、明治の廃藩置県で廃園となり、そこに植えられていた薬木薬草150種を1890年(明治23年)に第五高等中学校に寄付されて以来、五高の植物園に植栽されていたものであるため、まさに蕃滋園名残の薬木ということができるのである。

 植栽される植物の充実は、当時の薬草園主任宗定哲二教授、近藤飛弾夫助教授によるところが大きい。宗定教授は1927年末から1930年までドイツに留学し、その間、絶えず主にヨーロッパ産の種苗を送って指導を続けた。またこの留守の間は近藤助教授が、実際の造園設計や各種薬用植物の種苗の入手、育成にあたり、県内各地の山野から自生の各品種の採集、移植も行ったようである。早くも開園3年にして1930年9月には「薬園植物目録」(熊本薬学専門学校報第2号所収)が編纂されている。この目録には和名、学名、薬用部及薬名、応用をあげ、種子植物からシダ植物まで、143科、1000種が記録されている。

 1931年、熊本地方大演習に昭和天皇が本校に御臨幸され、これを契機に完全な形態と豊富な内容をもった薬用植物園ができあがり、このとき「薬用植物園目録」には98科360種の薬用植物が、植栽・栽培されているものとしてあげられている。

 1941年戦時下に入り、それまで熊薬薬草園として広く全国に知られていた本園は、戦時中の手入れ不足から消滅したものが数多く、さらに戦災にあい、戦後新しく再出発することとなった。それまで直接管理指導の任に当たっていた生薬学教室は乏しい教室研究費をさいて、園の復興と整備に力を注いだが、戦前の盛況に回復するまでに至らなかった。しかも1953年6月26日熊本市を襲った大水害のため、草本類を中心に壊滅的な被害を受けた。このとき多数の貴重な植物が枯死したことは、その後の薬草園の復興を大幅に遅らせることとなり、非常に残念なことであった。

 このような中で、1962年、浜田善利助手により国指定特別天然記念物であるアイラトビカズラの結実実験によって種が確定されたのは、当植物園の最も大きな業績の一つであろう。この種子より育った植物は新宿御苑と本園に1株ずつ生育している。

 水害後は鋭意各植物の再収集を行い、1963年に至り、当時植栽されていた種類を整理して「熊本大学薬学部薬用植物園目録」(B5版、41頁)が作成された。これには173科、1100種余の植物が収められ、当時の植栽の実情が詳しく記録されている。

 1964年から始まる薬学部本館の実験研究棟新営にさきがけて、1963年秋既に記念館(210坪)が樹木園中央に移植され、このとき既に標本園はかなりの種類を移植せねばならなかった。しかもただちに現在の標本園の位置に移植できる情況ではなくて、一時的に現在の体育館周辺の空地に仮植して急場をしのいだ。しかしこれも移植には最悪の夏期にかかって作業する羽目になり、ここにおいてもまた、枯死していった貴重な薬用植物の数は少なくない。

第二期:熊本大学薬学部附属薬用植物園発足・初代園長村上誠愨教授就任

 1974年4月、熊本大学薬学部附属研究施設として、薬用植物園が発足した。この時代、初代園長村上誠愨教授を中心に、標本園、建物など今につながるハード面の整備が行われた。

 標本園は学部内敷地の東側に3196平方米で設計、ここは戦災で瓦礫と化し極度に悪化した土壌を全面的にいれかえて造成し、また鉄筋コンクリート2階建の管理研究棟、ガラス張り温室なども整った。栽培圃場は、テニスコートや職員宿舎である白山町宿舎に土地を割愛させられ、大幅に面積を縮小したが、柴胡、黄連、黄柏、人参、莪?、ステビア等の薬用植物の暖地平坦地における実葉栽培試験を行って成功を収めた。

 見本園の植物は浜田善利助手、堀五男技官、北岡幸喜技官により、熊本県を中心とした九州各地から多くの種類の植物が意欲的に収集された。

第三期:四代園長に野原稔弘教授就任

 四代園長野原稔弘教授就任の1983年度から、標本園の全面的な再編成に踏み切られ、浜田善利助手を中心に系統分類の概念に従った植栽がされた。そして昭和60年には183科1417種もの植物が記録された「植物目録」が発行された。1983年からは厚生省からの認可を受けてケシ、アサの栽培が開始された(1995年頃まで)。

 野原教授就任後、管理棟北側に各種実験器具、クリーンベンチを備えた二階建ての実験研究棟が増設され、研究施設としての姿が鮮明になった。この時の主な成果としては、タバコ栽培者に多発する皮膚炎の原因解明研究(1985年頃)、西日本に蔓延した輪斑病の病原菌の培養と病毒素の究明、ならびにその予防法の提示(1985~1990年頃)、輪斑病菌の合成研究、および代謝毒素の培養研究(1985年~1995年頃)、イネの根の生長促進物質の特定(モンタナ大学からの派遣研究員との共同研究、1990~1995年頃)などが挙げられる。 特にSolanum属植物の成分研究は盛んに行われた。栽培圃場で栽培されたものが実験に供試されていたことも特筆される。このときSolanum属植物だけでも200報以上の論文が執筆されている。

 社会的活動も今につながる多くがこのころに始まった。植物園実習が学生実習に必須科目として取り込まれたこと、日本植物園協会に入会したことは大きい。県主催の講演会、放送大学公開講座、薬剤師講座での講演など啓蒙活動も活発であった。

第四期:五代園長に矢原正治助教授就任

 2003年4月に五代園長として矢原正治助教授が就任した。これまで植物園は薬学部附属施設であったが、大学院重点化計画の一環として大学院薬学教育部の附属となった。同時に、それまで生薬・天然物化学研究室が管理していた植物園実験室は、「薬用植物学研究室」として独立し、矢原園長が専任教員として学生の指導に当たることとなった。

 矢原園長はヒマラヤ自生種を中心とした植物の成分研究を行い、多くの学生を送り出され、各種観察会、勉強会も積極的に開催されていた。毎年一回開催される「薬用植物を知ろうin熊本」、および毎月の「月例薬用植物観察会」、「傷寒論をやさしく読む会」、「初級漢方とハーブ」は多くの参加者で賑わった。

 植物園は2006年より、日本植物園協会の「植物多様性保全拠点園(地域拠点園)」に認定された。絶滅危惧植物の調査および生育域外保全の一環として、熊本県レッドデータブックに収録されている植物の収集を鋭意行っているほか、熊本県を中心とした九州の薬用植物の遺伝資源園としての性格を出すべく、植栽植物はこの地域の自生種と順次入れ替えを行っている。

 2010年からは、薬の元になる薬用資源の栽培、研究・教育、啓発を推進することを目的に「薬用資源エコフロンティアセンター」と改称し、園長の肩書も「センター長」となり、矢原准教授が初代センター長に就任した。

第五期:二代センター長に渡邊高志教授就任

 2015年4月からは、高知工科大学から渡邊高志教授が二代センター長(薬用植物園時代の園長を含めると六代目)に就任した。渡邊センター長は植物の産業化を目指した適地栽培評価法をはじめ、植物の自生地における土壌分析、地球規模の気候変動が及ぼす植物への影響に関する研究に取り組んだ。

 また、県内の各自治体や有志の方々と共同し「薬草キャラバン」を開催した。これは食文化観光の開拓のために、地元の山野草や昔ながらに地元に伝わる伝統食・伝統野菜などの情報を現代の食に取り入れ、新しい食文化の空間を創出することを目指すものである。それぞれの地域ごとに新食材となる植物を取り上げ、自生地の探索や採取、調理、実食などに加え、植物の様々な活用法の検討などについてワークショップを開催している。

 また、2015年からは薬学部の「薬草パーク構想」が展開されている。これは、薬学部キャンパスを「薬草パーク」と位置づけ、在学生、卒業生、一般の方々に散策を楽しんでもらおうという構想である。それを受け、2016年からは若手職員を中心とした「薬草パーク観察会」を年に数回開催している。植物の観察だけでなく、専門家による講演をはじめ、余剰種苗の配布、収穫した薬草茶の試飲などを行っており、好評を得ている。

第六期:七代園長に三隅将吾教授が就任

 2019年、薬学部内の組織が大きく再編された。薬用資源エコフロンティアセンターは、新たに設置された「グローバル天然物科学研究センター」の一組織として、9年ぶりに「薬用植物園」の名前が復活した。同時に、センター長の三隅将吾教授が園長に就任した。薬用植物園はこれまでの業務を引き継ぐとともに、グローバル天然物科学研究センターの使命として、これまでに収集した植物を各種試験に提供し、創薬研究に貢献している。

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